1966年の1月、富士山の麓に日本を代表するサーキットが誕生した。その名は富士スピードウェイ! そう、『週刊プレイボーイ』と富士スピードウェイは共に昨年、50周年を迎えた、同い年の「タメ」なのだ!(学年はひとつ違うけど…)

その富士スピードウェイで3月12日、開業50周年イベントの掉尾(とうび)を飾る「FUJI WONDERLAND FES!」が行なわれ、これまで富士スピードウェイを彩ってきた伝説の名車やドライバーたちが大集合! 富士山麓に懐かしいエキゾーストノートを響かせながら、集まった3万1千人のファンを魅了した。

ちなみに、週プレと富士スピードウェイが「タメ年」なのは、決して偶然ではない…。1966年といえば、東京オリンピック開催から2年後。ビートルズが武道館で伝説の来日公演を行ない、東名高速に続いて、前年には名神高速道路が全面開通。後に「マイカー元年」と呼ばれたこの年には、初代トヨタカローラが誕生するなど、自家用車の普及で日本の「モータリゼーション」(懐かしい言葉…)が急速に進んだ年としても知られている。

終戦から20年を超え、そんな「アゲアゲ」の空気の中、週プレにとって女のコや音楽やファッションと共に「クルマ」がすごく大切なテーマだった時代に日本の「カーレース」を大きく発展させたのが、1962年に開業した鈴鹿サーキットに続いて、この年、新たに「国際規格サーキット」として誕生した富士スピードウェイだったのである。

そんなワケで「富士スピードウェイの50年」は、そのまんま「週プレの50年」の歩みとも重なっている。この日、時空を超えてサーキットを駆け抜けた、伝説のレーシングカーやドライバーたちの記憶は、いわば週プレ50年の歴史の中でそれぞれの時代が刻んだ「柱の傷」みたいなモノだと言っていいのだ。

60年代中盤からトヨタ、日産、プリンス自動車(66年に日産と合併)、ダイハツといった、自動車メーカー直系の「ワークスチーム」とポルシェ、ジャガーなどの外国製レーシングカーを駆る、裕福な「プライベーター」たちと火花を散らした黎明期の「日本グランプリ」は、やがて「トヨタ7」対「ニッサンR380」の死闘へとつながり、トヨタ2000GTや初代スカイラインGT-R(通称ハコスカ)といった伝説の名車が誕生!

その後、70年代のオイルショックで自動車メーカーのワークスチームが次々と活動を休止すると、今度はF2などのフォーミュラカーレースや富士グランドチャンピオンシップ(通称GC、またはグラチャン)、カローラやサニー、マツダファミリア・ロータリークーペなどの市販車をベースにしたマイナーツーリングカーレースが隆盛。『週刊少年ジャンプ』で連載された漫画『サーキットの狼』が巻き起こした「スーパーカーブーム」にも刺激され、日本のモータースポーツは新たな時代に突入することになる!

日本初のF1グランプリ「F1世界選手権・インジャパン」

そして、その大きな節目となったのが、1976年に富士スピードウェイで開催された日本初のF1グランプリ「F1世界選手権・インジャパン」だ。豪雨の中、富士で行なわれた最終戦でフェラーリのニキ・ラウダとマクラーレンのジェームズ・ハントがこの年の世界チャンピオンを掛けて争った伝説の一戦は、後に、ロン・ハワード監督の映画『ラッシュ/プライドと友情』(2013年公開)のクライマックスに描かれるほど。

あの時の優勝マシン、マリオ・アンドレッティが乗っていたロータス77やラウダのフェラーリ312T2、そしてハントのマクラーレンM23が40年の時を超え、富士スピードウェイを走っている姿を見ると、当時、富士にF1を観に行きたくても行けなかった少年ファン(筆者・52歳)の涙は止まらないのだ。しかも、国産F1マシンとしてこのレースにデビューしたコジマ・エンジニアリングのKE007や、伝説の国産F1マシン(74年に2戦出場も予選落ち)マキF101、77年に富士で行なわれたレースに出場したウルフWR1までいるなんて、なんていう贅沢!

ちなみに、初めて日本で開催されるF1は、当時の日本のレース界にとってまさに「黒船」! コジマKE007でこのレースに挑んだ長谷見昌弘や、年式落ちのティレルで参戦した高橋国光、星野一義らの奮闘はその後、日本人ドライバーやファンたちに「F1」という目標を強く意識させ、全日本F2選手権や富士GCシリーズといった国内レースを刺激。それから約10年後、ホンダの第二期F1参戦や中嶋悟のF1フル参戦へとつながり、日本を空前のF1ブームへと導いていく…。

また、富士といえば忘れられないのが「グループC」と呼ばれる、スポーツプロトタイプカー、通称Cカーによる「スポーツカー耐久レース」の聖地としての顔だろう。特に80年代から90年代初頭にかけての「グループC黄金時代」にはトヨタ、日産、ポルシェ、マツダなどのグループCカーが数多く参戦。折からの「バブル景気」に乗って、爆発的な盛り上がりを見せていた。派手なスポンサーロゴをまとったマシンがピットガレージを埋め尽くし、セクシーなデザインのコスチュームを着た「キャンギャル」がサーキットで一気に広まったのもこの時代だ。

ちなみに、このバブル期にはCカー以外にも、フォーミュラカーの全日本F3000選手権やツーリングカーレースのJTCCも活況を呈し、全日本F3000からは鈴木亜久里や片山右京が次々にF1へ旅立った。その後、F1への「近道」として、有力な外国人ドライバーも続々と日本のレースに参戦。世界チャンピオン5回に輝くミハエル・シューマッハのほか、エディ・アーバイン、ミカ・サロ、ジャック・ビルヌーブなども全日本F3000や全日本F3で経験を積み、後にF1へとステップアップしていった…。

「バブルのおかげ」とはいえ、あの、『週刊少年ジャンプ』までマクラーレン・ホンダのスポンサーをしていた時代だからなぁ…と、思わず「遠い目」になってしまうのは、自動車レースだけじゃなく「あの時代」が今やオッサンとなった当時のファンにとって、まさに「夢のような出来事」だったからに他ならない。そのせいか、今、レイトンハウスカラーのマーチ88BやキャビンレッドのローラT90がこうして富士スピードウェイを走っているのを見ると、一瞬、あの「バブルな時代」を思い出して、ウットリしてしまうのだ。

大改修を経て、30年ぶりにF1日本GPを開催

その後も、富士スピードウェイは大改修を経て、2007、2008年には約30年ぶりにF1日本GPを開催。この時は、大雨や運営方法を巡って週プレがあえて「苦言を呈した」こともあったけれど…。富士山麓で50年の時を過ごした、この素晴らしサーキットが、草の根のアマチュアレースからスーパーGT選手権、スーパーフォーミュラなどの全日本選手権、そして世界耐久レース選手権(WEC)などを通じて、この国の自動車レースを支え続ける「聖地」であることは今も変わらない。

このサーキットには50年分のトキメキと、50年分の興奮と、50年分の歓声がまるで日本のモータースポーツの歴史を記す「地層」のように折り重なっている。そして、そのシーンのひとつひとつを、週プレも同じ時代を生きる「目撃者」として見つめてきたのだ。

富士の名物である長いストレートを思いっきり駆け抜けてゆく、往年の名車たちのエキゾーストノートに胸を震わせながら、スタンドやパドックを埋めていた3万1千人のファンとともに、同い年の週プレもまた、この最高に贅沢な「誕生日パーティー」を満喫したのだった…。

「おめでとう富士スピードウェイ!」そしてこれからもよろしく!

(取材・文/川喜田研 撮影/村上庄吾)